会社がない!

目が覚めたら、会社がなくなっていた。その世界は、幸せか不幸せか?

蟹化する妻

「それは明日の朝、朝食をつくれないからよ」

夕食間近の時刻に朝食をつくる理由を私に訊かれた妻は答えた。

 

朝食をつくる暇がないってことは、朝早く出かける用事があるってことか?

私は直感的にそう解釈し、腑に落ちる記憶を思い出した。

 

妻は、旅行が趣味のママ友と、年に二、三回、バスツアーに出かける。

大抵は日帰りなので、出発時刻は早朝だ。

なので、バスツアーの前の晩に家族が食べる朝食をつくる(本人たちは、バスのなかで旅行会社が用意してくれた朝食を食べるようだ)。

 

二、三週間前の話だったと思うが、朝食の最中、妻はそのバスツアーでカニを食べにいくと私に話した。

仕事のことで頭がいっぱいであった私は、ぼんやり聞いていたので、旅行日がいつなのかはっきり思い出せないが、今週のどこかの平日であることは確かだ。

 

いや、今日がその日に違いない。

そう考えると、私はまた腹が立ってきた。

病院で認知症だと診断された夫をひとり家に残して、よくも旅行を楽しめるものだと思ったからだ。

 

「気楽なもんだな」

私は感情を抑えきれず妻に怒りをぶつけた。

 

「気楽?」妻は戸惑った表情を浮かべながらも、語気を強める。「気楽って何よ」

 

「亭主が病気なのに、遊びに出かけられるなんて、いいご身分だってことさ」

負けじと、私は更に声を張り上げた。

 

「遊び?」

妻はしかめっ面のまま首を傾げた。

 

「そうだろ、何とかツアーで、カニ食べに行くとか言ってたじゃないか」

私は蟹の手にたとえ、両方の手をチョキにして、妻の目の前で動かしてみせた。

 

「そんなの食べに行くわけないじゃない」

妻の顔は茹で蟹のように真っ赤になる。

 

「じゃあ、何をしに行くんだ」

 

「仕事よ!」

妻は叩きつけるように答えた。

 

「えっ」

驚きと戸惑い、恥ずかしさで返す言葉を失い、私の身体は瞬間凍結したように固まる。

 

「私も仕事…」

妻の後ろで私たちの口論を困った表情で見ていた長女が、おずおずと手を挙げた。

 

「ええっ!」

更に強烈な衝撃が加わり、瞬間凍結した私の身体に、ひび割れを起こすような感覚が走った。

 

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