会社がない!

目が覚めたら、会社がなくなっていた。その世界は、幸せか不幸せか?

朝メシは今?

どこにあるんだ、台所は…。

各部屋のドアを開け、台所か否かを確認しながら、私は一階に下りていく。

今朝目覚めたら、世の中が一変してしまった境遇の私には、自分の家すらも冒険地だ。

 

しかし一階に近づくに従い、まな板の上で何かが刻まれていることが想像される音と食欲をそそる香りが強まってきた。

 

それを頼りにすれば台所にたどり着けると確信した私は、もう各部屋の確認をする必要がなくなったので、夕餉をつくる気配が漂ってくる源へと、迷いのないスタスタとした足取りで進む。

 

さぁ、ここからが芝居の始まりだ。

その先が台所であろうと思われるドアの前に立つと、私は深呼吸をする。

 

それから認知症患者らしい演出をするため、体中の筋肉を弛緩させ、タラタラとした足取りに切り替え、そのドアを開ける。

 

「朝メシはまだかぁ」

私はその内に入るなり、トボけた声をあげた。

 

私の声に反応し、台所で背を向けて並ぶ二人が同時に振り向く。

 

「あら、起きたの。どう調子は?」

包丁を手にする妻が言った。

 

「お父さん、大丈夫?」

続いて、フライパンを手にする長女が言った。

 

記憶のなかの長女は、高校一年生になっても家事を手伝おうという気のない将来が心配な娘であった。

そんな彼女が台所に立つ姿を見て呆気にとられた私は、演技をするまでもなく、口を半開きしたマヌケ顔で立ちつくす姿になってしまった。

 

「お父さん、大丈夫?」

思春期の娘らしく、父親を毛嫌いし、ろくに口もきいてくれなかった長女が、小学生以来の思いやりのある言葉を繰り返してきた。

 

「ああ…」

私は感極まって、涙声を抑えられなくなる。

 

さっそく演技続行不可能な事態に追い込まれた私は、気の利いたアドリブが思い浮かばないので、激しく咳き込んでごまかす。

 

「大丈夫」

妻と娘は同時に言うと、私のもとへと駆け寄ってくる。

 

「ああ…」咳き込んで出たものと思わせたい涙を袖で拭いつつ、私は言う。「それより、朝メシはまだか」

 

「いま作っている最中よ」

妻は私の背中を擦りながら答えた。

 

「へっ!?」想定外の展開に仰天し、私は思わず真顔になる。「あ、朝メシだぞ」

 

「そうよ」

妻も、私がわざと違えたパジャマの上着のボタンを掛けなおしながら、真顔で返してきた。

 

前へ

次へ

あらすじを読む

最初から読む