「なに落ち込んでいるんだよ」
弟は、契約雇用の身分に落ちた私を不可解そうな表情で見る。
「落ち込むにきまっているだろ」私は吐き捨てるように言う。「明日が保証されない身分になっちまったんだから」
「アニキは、とことんマイナス思考だな」弟は笑い飛ばす。「3年毎に契約が切れるから、いいんじゃないか。それを機に、自分の好きな道やステップアップにチャレンジできるんだから」
「オマエってやつは、とことん極楽とんぼだな」
私は、その言葉とは真逆の転落人生を歩む弟を冷ややかに見て、深い溜め息をつく。
能力を活かせる仕事も高い給与も与えられない契約雇用に、明るい未来なんてあるもんか…。
私の脳裏に、自分の下で働いていた派遣社員の陰鬱な顔が浮かぶ。
「ウォーッ。オレはこれからどうやって家族を養っていけばいいんだ!」
絶望のあまり、私は頭の髪の毛をかきむしる。
「どうしたの、大きな声を出して」
階段をあがってきた妻が私達のほうへ駆け寄る。
「わけわからないよ」弟は困り顔で両手をあげる。「アニキ、オレが結婚していることも、契約で働いていることも忘れちゃっているし、どうしちゃったの?」
「ごめんなさいね」妻は頭を下げながら、弟の耳元で囁く。「ちょっと、一時的に認知機能がおかしくなっているようなの」
「エッ、そうなの」
小声で驚く弟の声。
「だから、今日はこのへんで」
申し訳なさそうな表情で、両手を合わせる妻。
「わかった。お大事に」
静かな笑顔で踵を返し、足音もたてずに去っていく弟。
パニック状態で荒い息を吐きながら見るその光景は、陽炎のごとく揺れていた。