会社がない!

目が覚めたら、会社がなくなっていた。その世界は、幸せか不幸せか?

これまでの話

目が覚めると、30分も寝坊をしていた。

驚いたことに、結婚してから一度も寝坊をしたことのない妻も、となりで熟睡している。

体調でも悪いのかと心配して妻を起こすと、体は大丈夫そうだ。

しかし寝坊のせいで勤めに遅れそうだと責めても、妻はまだそんな時間ではないと答えて、二度寝しようとする。

妻の頭がおかしくなったのか、自分の頭がおかしくなったのか、私は混乱する。

それを確かめるために、難しい漢字を書かせるテストを試みる。

驚いたことに、漢字力が私に劣り、読書家でもない妻は、事も無げに難問を解いた。

妻の答えが合っていることを認めることは、おかしいのは自分であることを受け入れることになると思い、私は返答に困る。

しかし妻が読む雑誌に目が止まって、妻が難しい漢字を書けたのは、その漢字がよく出てくると思われるその雑誌を読んだからだと推理した。

だから妻よりも自分が劣っているわけでも、自分の頭が変になったわけではないと安堵する。

すぐに解決しそうにないこの問題は先延ばしにすることにして、妻に「会社に行く」と告げると、驚いたことに妻は会社が理解できなかった。

妻の認知症がかなり進んでいることを感じ取った私は、会社に行くのをやめ、病院へ妻を連れて行くことにした。

朝食は途中で買って済ませればいいと思ったが、妻との会話から、家に残していく子どもたちの朝食を用意しなければいけないことに気がつく。

認知症患者に火を使わせるわけにはいかないので、近くのコンビニまでマイカーを飛ばし、朝食を調達することにした(なんと妻はコンビニもマイカーも理解できない病態だった)。

しかし寝室を出ると、家の様子がすっかり変わっていることに仰天する。

安普請であるはずのマイホームが、自分の収入では絶対にローンが組めないほどの立派な家に変わっていたのだ。

パニックになった私は、病院にいかなければいけないのは自分だと知る。

妻に付き添われて病院に行き、認知症を調べる診察を受けたが、どこも異常はなかった。

しかし家の外の風景も初めて見るものだったし、遅刻の連絡を入れようと、スマホのアドレス帳を検索したが、職場に関する電話番号は一切登録されてなく、自分が正常な世界にいるとは思えなかった。

働けなくなる恐怖でパニックになっている私に、妻は私が休んでも誰もこまらないと言った。

家族のために必死に働いてきたこれまでの人生を全否定されたようで、私は激怒する。

しかし妻は、私のことを思った発言だったと答える。

その真意は、無理をして働いて病気を悪化させれば、さらにみんなに迷惑をかけることになるので、休養を優先させるべきだというものだった。

しかし会社は人手不足で、自分に代わる人材がいないから、そうもいかないと私は答える。

すると、妻はいくらでも代わりになる人材はいるはずだと言い張った後、「会社って何?」と訊く。

私は再び妻のほうがおかしいのではないかという思いにとらわれ、待合コーナーにいる他の人に、妻と同じように会社を理解できないか、確かめてみたい衝動にかられる。

その時、待合コーナーに入ってきた男性が、カイシャという言葉を口にする。

その言葉に反応した私は、男性に今言った言葉の確認を求める。

しかしその男性は、カイシャではなく、ハイシャと言ったと答える。

聞き違いだと知った私は、ひどく落胆する。

暗く沈む私を見てその男性は心配するが、その男性の知人は私に向かって狂人扱いをするジェスチャーをしてみせる。

それを垣間見た私は、悔し涙を流す。

傷心のまま帰宅した私は、昼食を食べる気にもならず寝室に向かう。

そこに不出来な弟の訪問を告げる妻の声がして、私はさらに気分が悪くなる。

弟は手土産を持ってきたが、そういう時は、金の無心が裏にあるのが常だ。

私は金を貸す意思がないことを示すために、無職になったことを弟に告げる。

いつになく真顔で理由を尋ねる弟に、体の不調を語ると、弟は、体が良くなったら、自分に合った仕事を探せばいいと私を励ます。

中年男に仕事が選べるわけながいと思った私は、気楽な弟に立腹する。

しかし希望の職につけるかつけないかは、私の努力によると弟は反論する。

世間知らずの弟に私は、夢追い人から覚めて、結婚をしろと諭す。

ところが、弟は結婚していると答え、私は驚愕する。

しかも弟と同様、私も契約で雇用される身分であることを告げられ、ショックを受ける。

しかし契約雇用だから、契約切れの度にチャンスが訪れると前向きに弟は言う。

派遣社員の暗い顔を思い浮かべる私はそんな気になれず、将来を憂い絶叫する。

その声を聞きつけ駆け寄ってきた妻は、私の病の実情を弟に語り、病人を刺激しないように帰宅を促す。

弟が帰った後、夢も見ないほど熟睡した私は、今朝からの出来事が夢であることを願って、頬をつねるなど様々なことをするが、その願望は儚く打ち砕かれる。

失望した私は、自死の衝動にかられる。

しかし残される家族のことを考えると、それは許される選択ではないと思う。

家族を養っていくために、早く病気を治して社会復帰をせねばならぬと気合を入れたが、どうしても自分の頭がおかしくなっていると思えない私は、努力の方向性が見えず、再び頭を抱える。

外の世界を変えられないのなら、自分を変えるしかないと気がついた私は、そのためには外の世界を知ることから始めるのが得策だと思う。

外の世界を学ぶ先生として妻が適任者だと思ったが、教えを請うのに当たって、いま自分が置かれている状態を正直に話すのがいいのか、病人を演じるのがいいのか、私は悩む。

しかしどちらを選んでも、正常な頭の持ち主であると思われないと考え、私は病人を演じることにする。

腹が決まると、急に腹が減ってきた。

そこで認知症患者を演じる手始めとして、夕食の時刻なのに「朝メシはまだか」と催促する名案を思いつく。

台所へ下りていくと、妻と長女が夕食をつくっていた。

さっそく私は、「朝メシはまだか?」と認知症患者を装った発言をしてみせる。

すると驚いたことに、妻は「いま作っている最中よ」と答えた。

長女にも同じ質問をすると、長女も同じことを言った。

寝過ごして翌朝になってしまったのかと混乱した私は、自分が夕食を食べたか妻に訊く。

すると妻は、これから夕食だから、そんなわけがない、と答える。

わけの分からぬことを言う妻に腹がたった私は、いま朝食をつくる理由を訊く。

その理由は、明朝、朝食をつくれないからだと妻は答える。

早朝に出かける用事があるから朝食をつくる暇がないと解釈した私は、数日前、妻がママ友とバスツアーに行くと言っていたことを思い出す。

バスツアーは早朝出発なので、妻はいつもその前の晩、朝食を用意する。

そう思うと、病気の夫を家に残してバスツアーに出かける妻の気楽さに腹が立ち、私は怒りをぶつけた。

すると、妻は旅行ではなく、仕事で朝食をつくる暇がないと明かす。

驚いたことに、長女も仕事があるという。

その仕事は、早朝のものか、深夜のものか、想像すると、いかがわしい夜の仕事ではないかと私は心配する。

しかしいずれにしても、妻子に負担をかけている自分に責任を感じる。