会社がない!

目が覚めたら、会社がなくなっていた。その世界は、幸せか不幸せか?

第二章 会社が消えた

驚愕の労働時間

「ちょっと訊いてみたいんだけど、アタナの考える楽して稼げる仕事って何?」と妻は言った。 「そ、それは…」 ストレートに訊かれると、返答に困る質問だ。 私が勘ぐるカラダを売って稼ぐ仕事をしていると言えないし、もし妻と長女が真っ当な仕事で労働時間…

意味わかんない

「意味わかんない」 間髪入れず、長女が横から口を挟んだ。 「な、なんだぁ、親にむかってその言い草は!」 猛烈に腹が立って、私は長女に咆哮をぶつけた。 「もう、いい加減にして!」 妻は長女を庇うように、両手を大きく広げて長女の前に立った。 「そう…

真面目の逆

「真面目な仕事?」妻は私の顔を食いつくように見てから、鼻で笑った。「なに、よくわからない」 「いい歳して、そんなこともわからんのか!」 小馬鹿にされた気分になり、私は声を荒げた。 「じゃぁ、真面目じゃない仕事って何?」 カチンときたのか、妻も…

言えないよ

「や、やりたい仕事って、お、おまえまさか…」 一文字発する度に水分が失われていくように、私の口内は急速に乾いていく。 「まさかって、なに?」 長女は上唇を、再びアヒルのようにめくりあげる。 「そ、それは、つ、つまり、な、なんだ…」 娘の前で私の想…

どんな仕事だ!

「仕事が楽しい…」 嘘でも強がりでもなく、妻は本当に仕事を苦にしていない様子である。 記憶のなかの妻は、長時間の立ち仕事の辛さや、自分を活かせない職種への不満、職場の人間関係の悩み、家事との両立の大変さなど、夫婦ふたりになったときに愚痴をこぼ…

仕事が楽しい?

「いや、オレがこんな感じで働けなくなったから、お前らに迷惑をかけているなって…」 家族に対する申し訳なさと、自分に対する情けなさで胸がいっぱいになり、私の声はつまる。 といっても、働く場を失ったのは、自分のせいではないが…。 「だから、何が迷惑…

夜のお仕事?

妻は、近所の食品工場でパート勤務(週5日、1日6時間労働)をしている。 長女は、洗濯物ひとつ干すのすら重労働だと抵抗するほどの仕事嫌いなので(なぜか今日は様子が違うが)、アルバイトの経験は一度もない。 その二人が仕事で明朝の朝食をつくれないから…

蟹化する妻

「それは明日の朝、朝食をつくれないからよ」 夕食間近の時刻に朝食をつくる理由を私に訊かれた妻は答えた。 朝食をつくる暇がないってことは、朝早く出かける用事があるってことか? 私は直感的にそう解釈し、腑に落ちる記憶を思い出した。 妻は、旅行が趣…

晩メシの記憶

認知症であることを演じるために、意図的に「晩メシ」を「朝メシ」と言い間違えてみせたにも関わらず、驚いたことに、妻は夕食の時刻に朝食を作っているという。 そんな馬鹿な話があるかと思い、私は長女にも同じ質問をふった。 すると、長女までもが、妻と…

朝メシは今?

どこにあるんだ、台所は…。 各部屋のドアを開け、台所か否かを確認しながら、私は一階に下りていく。 今朝目覚めたら、世の中が一変してしまった境遇の私には、自分の家すらも冒険地だ。 しかし一階に近づくに従い、まな板の上で何かが刻まれていることが想…

最初の演技

夕食の時刻まで恐らくあと30分。 グル〜スピー! 食欲旺盛な青春時代以来、聞いた記憶がない高らかな腹の虫が鳴った。 昨夜から何も口にしていない私は、そのわずかな時間も待てないほどの激しい空腹感に襲われたのだ。 しかし病人を装っている身である。 「…

演技の厳しさ

白い天井を見つめ、5分ほど、思いついたふたつの戦略のどちらがいいか迷う。 が、結局どちらを選んでも妻から私がおかしくなっていると思われるのは免れないだろう。 ならば、頭がおかしくなったふりをして、いま置かれた社会のことを学び、社会復帰を目指す…

迷う「彼」の知り方

外の世界を変えようがないのなら、残された道はひとつしかない。 その道とは、己を変えることだ。 つまり、社会復帰をして家族を養っていくには、すっかり様変わりしてしまった世界に順応すべく、自分を変えるのが、変えられようのない世界に抗うより近道と…

残された道

残された家族のことを思うと、自死の選択はありえなく、働くしかないという結論に至る。 そのためには、早く病気を治して社会復帰せねば! 私は両手で頬を叩いて喝を入れる。 でも、オレは本当に病気なのか…。 私はどうしても自分の頭がおかしくなっていると…

最悪の選択

夢から覚めても、記憶にないショッキングな出来事の数々が揺るぎないものとなった今…。 自分の頭がおかしくなったにしろ、そうでないにしろ、私はこの現実に対処する選択を決めなければいけないと思った。 まず、思った選択。 それは、自死であった。 自死の…

傷の記憶

夢も見ない深い眠りから覚めると、枕元に置かれた時計の針は午後3時22分を指していた。 妻からもらった睡眠薬が効いたようだ。 3時間の熟睡で、心身の疲れはだいぶとれた。 しかし今朝からの出来事を思うと、心にばっと暗雲が覆う。 すべてが夢であってくれ…

契約雇用に未来あり?

「なに落ち込んでいるんだよ」 弟は、契約雇用の身分に落ちた私を不可解そうな表情で見る。 「落ち込むにきまっているだろ」私は吐き捨てるように言う。「明日が保証されない身分になっちまったんだから」 「アニキは、とことんマイナス思考だな」弟は笑い飛…

オレまで…

「お、おまえ、いつ結婚を?」 そう言いつつ、私は弟の左手に視線を落とす。 ヤツの左手の薬指には、結婚指輪がつけられていた。 「なに言っているんだよ」弟の表情は、ギョッとしたものになる。「アニキだって、結婚式に出席したじゃないか…」 「そ、そうだ…

弟まで…

「な、なに怒っているんだよ…」 弟は私の剣幕が予想外であったらしく、呆気にとられた表情を浮かべる。 「43の中年男が自分に合った仕事を就けるなんて、そんな贅沢できるわけないだろ!」 世間知らずの弟に私はかみつく。 「それはアニキの努力次第だろ」 …

気楽な弟

「無職って、どういうことだよ」 弟はめったに見せない真顔になって、私に迫った。 いい歳をしてフリーターで地に足がつかない暮らしをしている弟が、まさかこんな反応をするとは思わなかった。 金づるを失うことに動揺しているのか…。 「働く気、なくなっち…

賄賂はごめん

妻の声がすると間をおくことなく、弟の脳天気な笑い声が近づいてくる。 いくら兄弟でも遠慮というものがないのか。 無礼なヤツだ。 私は顔を険しくして弟の到着を待つ。 じきに弟の四角い顔が現れた(この顔立ちも、寅さんというあだ名がついた所以だ)。 「…

間の悪い男

会社から電話がないのなら、自ら会社に出向くしかないと思ったが、すべての景色は昨日までのものとは一変しているので、どうすることもできず、私は妻に頼って家に帰った。 家に着くと、時刻はもう午後1時をまわっていた。 妻はすぐに昼食を用意すると言った…

悔し涙

「ど、どうしたぁ」歯抜けの男性はオロオロとしながらも、私に駆け寄る。「オレ、何かマズイことを言ったか?」 「カ、カイシャがぁ…」 気が遠くなっていく私は、助けを求めるように、彼にむかって右手を伸ばす。 「あっ!」 突然、伸ばした手首が誰かにつか…

打ち消される希望

すがるような思いで、病院の休憩コーナーにいる患者たちを見回していると、50代前半くらいの白髪頭の男性が私にむかって手をあげた。 「よお」 頬骨のつきでたその男性は、人懐っこい笑顔を浮かべて言った。 「ええと、どうも…」 戸惑いながらも、知り合いだ…

本当に消えた?

「泣くなよ。悪かった」私はあげた右手の拳を開き、妻の背中を優しくなでた。病院の休憩コーナーには、五人ほど入院患者がいる。ここで大泣きされたら、DV夫にみられてしまう。「でも、なんでそれがオレのためになると思うんだい?」 「決まっているじゃない…

妻の爆弾発言

「オマエ、それを本気で言っているのか?」 家族のために必死に働いてきたのに、それを全否定されたようで、私の声は怒りで震えた。 「な、なに怒っているのよ」 私が鬼のような形相をしているのだろう。 恐怖で、妻の声も震えている。 しかし、私がなんで怒…

動じない妻

「ウォーッ! 会社は、ど、どこへ行ってしまったんだ!」 病院のトイレの便座に座るやいなや、たまっていた想いが一気に噴出した。 それからしばらく、堰を切ったように涙が溢れ出し、私は号泣した。 5分ほどすると、涙が枯れた。 あまり長くトイレにこもっ…

迷子の私

病院に運ばれた私は、認知症診断テストとMRI検査を受けた。 その結果は、どこも異常なし。 それはうれしいのだが、バンザイと両手をあげて喜べない。 家の中だけでなく、外の世界もまったく変わっていたからだ。 まずは自宅の外観。 耐震性、耐久性、美観に…