会社がない!

目が覚めたら、会社がなくなっていた。その世界は、幸せか不幸せか?

驚異の急成長

「なぁ〜んだ。アナタが書いてほしかったバラって、アレなの」妻は鉢植えのバラを一瞥して、つまらなそうに笑った。「なぁ〜んか、平凡」

 

「平凡とは、なんだ」私はムッとして答える。「バラといったら、ふつうアレだろ」

 

バラをイメージしろと言われれば、誰だって植物のバラを思い浮かべるはずだ。

それを平凡だと酷評するほうがおかしい。

 

「でもそんな誰でもわかるものじゃ、テストにならないじゃない」

 

わけのわからないことを言う女だ。

やっぱりコイツの頭、ちょっと狂ってきている。

意味のない問答に時間を費やしている場合じゃない。

出勤時刻も迫っている。

一刻も早くテストで妻の脳の状態を診て、会社を休むかどうか決断せねば、遅刻になってしまう。

 

「いいから書くんだ!」

私は気が急いて、口からツバを飛ばす勢いで怒鳴った。

 

妻は不服そうに頬をふくらませたが、再びペンをとると、それをサラサラと紙面に走らせる。

そして事も無げに書きあげると、私にそれを見せた。

「これでいい?」

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 「うっ…」

私は言葉につまった。

 

妻の答えが正解だったからではない。

正解がわからないから、どう応えていいかわからなくなってしまったからだ。

 

スマホで調べてみるか…

いや、それでは自分が正解を知らないことがバレてしまう。

 

それにしてもアイツ、こんなに漢字に強かったっけ…。

 

パソコンを使うようになり手書きで字を書く機会が減ったせいで、ずいぶん漢字を忘れてしまったが、それでも漢字を書く能力は妻に負けない絶対的な自信がある。

クイズ番組でも、私のほうが圧倒的に正解率が高かったからだ。

 

妻は、週刊誌のゴシップ記事を拾い読みするぐらいで、一年に一冊の本も読みあげない。

そんな人間が難易度の超高いバラという字をたやすく書くなんて(もしこれが正解だったらの話だが)…。

私はにわかに信じられなかった。

 

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砕け散る自信

「はい、これでいい?」

妻は迷いもなく、私が求めたバラという字を書きあげると、それを私に見せた。

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「ハハハ、何だよその字、チルじゃないか」

妻が予想とかけ離れすぎた字を書いたので、私はふきだしてしまった。

 

やっぱり、おかしいのは妻のほうだったんだ…。

自分の頭が正常であったことに安堵したが、妻の頭が狂っている可能性が強まったことを思うと、笑いは一気に冷めた。

 

「なに言っているのよ。この字、バラとも読むのよ。散るってことは、バラバラになるってことでしょ」妻は心配そうな目で私を見る。「もしかして知らなかった?」

 

えっ、そうなの…。

回復したばかりの自信が、再び砕け散る。

 

 しかし、この家の主として、プライドの崩落だけは食い止めなければならぬ。

「し、知ってたさ」とっさに見栄が口から飛びでてしまった。「でも、オレが書いてほしかったバラとは違う字をオマエが書いたから、おかしくなってしまったんだよ」

 

「本当?」疑わしげにジロジロと私を見る妻。「じゃあ、アナタが書いてほしかった字って何?」

 

「アレだよ!」

私は動揺を振り払うような勢いで、棚の上の鉢植えのバラを指差した。

 

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おかしいのはどっち?

頭がおかしくなったのは、オレなのか、カミさんなのか…。

 

自分の頭脳が正常であることを確認するために、私は暗算をしてみる。

 

①55+23=78

 

②76+88=164

 

③92−34=58

 

④7✕8=56

 

⑤8✕6+22===70

 

5問目は手間取ったが、一応、計算能力(理数系じゃない)は問題がないようだったで、次に目に入ったものを漢字に変換してみる。

 

①まど→窓

 

②とけい→時計

 

③たな→棚

 

④うえきばち→植木鉢

 

⑤バラ→?????

 

ええと、どうだったっけ…。

だいたいの感じは思い浮かぶものの、細部が導き出せない(文系だったのに)。

私は棚の上におかれた植木鉢のバラを凝視しながら、あきらめずに考える。

 

「どうしたの? ウンウン唸って。やっぱりどこかおかしいんじゃない?」

背後から心配げな妻の声が聞こえてきた。

 

そうだ!

私はひらめいた。

 

ひらめいた、といっても、バラの漢字を思い出せたわけではない。

そうではなく、頭がおかしくなっていないかを確かめる方法を思いついたのだ。

 

私は、枕元に置いてある小ぶりなノートとシャーペン(私はメモ魔で、常にメモ帳とペンを携帯している)を手に取ると、それを妻の前に突きだして言った。

「おい、バラを漢字で書いてみろ」

 

「なによ、いきなり」

妻は怪訝な表情で、私を見上げる。

 

「いいから、書くんだ!」

私は、拒否は許さないぞ、という意をこめた強い口調とともに、ノートとシャーペンを妻の鼻先に近づける。

 

「うるさいわねぇ、もう…」

眉間にしわを寄せながらも、妻はノートとシャーペンを受け取る。

 

ヨシ、これで妻の頭が正常かどうか、確かめることができるぞ。

私は、妻に正解してもらいたいような、正解してもらいたくないような複雑な気持ちで(正解すれば、妻の頭脳は明晰だということになるが、答えられなかった自分は妻に劣るという話になるからだ。つまり、おかしいのはこちらという可能性が高まるのだ。といっても、バラという漢字は難しいので、答えられなくても認知症だと結論づけられないが…)、ノートにシャーペンを走らせる妻を見守った。

 

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打ち砕かれていく希望

「病院に行こう」

私は妻のただならぬ狂いに驚愕し、一刻も早く医者に診せなければいけないと気持ちが急いた。

 

「なんで、アタシが病院に行かなければいけないのよ」

妻は、理解不能な抽象画を見るような目で私をにらんだ。

 

妻はむしろ、私のほうがおかしくなっていると思っているに違いない。

認知機能が衰えた人間は、自分が狂っていることを認知できないのだ。

まさか、この歳で妻を介護しなければならなくなるだなんて、夢にも思わなかった。

 

私は胸が張り裂けそうな思いで答えた。

「だって、6時半がどういう時間か、まったく認知できていないようだから」

 

「だから、6時半がどうしたのよ?」

 

「オマエ、本当にわからないのか? あと5分で、オレが勤めにでる時刻になる。なのに、オマエは朝メシもつくっていない。だから、どうかなってしまったんじゃないかと、オレは心配しているんだ」

 

私がそう言うと、妻の顔色が青ざめた。

「えっ、そんな時間に出勤することになったの?」

 

やっぱりおかしい!

妻が一言返すたびに、妻が認知症であるという確信が強まっていく。

 

私は絶望のため息をついて首を振った。

「そんな時間って、急に変わったわけでも何でもない。前のとおりさ」

 

「だったら、そんなに慌てて朝食をつくる必要ないじゃない」妻は外しかけたパジャマの第一ボタンをはめ直すと、捨てぜりふを吐いた。「アナタこそ、寝ぼけているんじゃないの」

 

寝ぼけている、オレが…。

ひょっとして、今日は休日?

 

オレは置き時計の日にちの表示に目をやった。

 

7月6日(木)

 

残念ながら、定休日でも祝日でもない。

午前有休をとった覚えもない。

 

最後の確認のために、私は頬をつねった。

「痛っ」

悪夢であってほしいという願いも、見事に打ち砕かれた。

 

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狂った体内時計

「なによ。どうしたの?」

私が妻の肩を揺すると、妻はすぐに反応し、目をこすりながら不機嫌な声をあげた。

 

「どうしたの、って、それはこっちのセリフだ」私はホッとしながらも、妻の間抜けな返答にムッとした。「寝坊なんかしたことのないオマエが起きないから、何かあったかと心配したじゃないか」

 

「寝坊!」妻は寝ぼけ眼を見開き、慌てて時計に目を走らせた。「やだ、まだ6時半じゃない。驚かせないでよ」

 

「え!」

私は耳を疑った。

こいつ、やっぱりどこかおかしくなってしまったのか…。

 

「6時半だぞ」

私は置き時計を手にとり、妻の目の前に突きだした。

 

「そんなに近づけなくてもわかるわよ。6時半でしょ。それがどうしたの?」

 

「おい、オマエ、大丈夫か?」

さっきより、もっと大きな不安が私に打ち寄せた。

 

妻は、時計よりも正確な体内時計をもっていると家族から言われている。

しかしその妻が、私が会社に遅刻しそうになっているのになんとも思わない。

妻のカラダのどこかに狂いが生じているに違いない。

私の脳天に稲妻のような戦慄が走った。

 

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妻の異変

私の起床時刻を30分も過ぎているのに、こちらに背を向けて寝ている妻を見て、私はかなり動揺した。

私と結婚して16年、妻は一度も朝寝坊をしたことはない。 

インフルエンザで39℃の高熱がでてても、前の晩に風呂場でこけて肋骨にヒビがはいったときでも、私の出勤時間に間に合わせるために、台所に立とうとしたくらいだ。

 

その妻が、まるで死んだように寝ている。

 

いや、まさか、本当に死んでいる? 

いや、いや、昨晩は全然元気だったし、まさか、そんなことはあるまい。

 

それに、妻はまだ41歳だ。 

でも若くても、急死することが絶対にないとはいえない。 

そういえば、あいつ、最近どうも頭痛がすると言っていたな…。

 

お、おい、よしてくれよ。

おれたちには、高1の娘と小4の息子がいるんだぞ。

それに、じいさん、ばあさんの面倒は誰がみるんだ!

 

「おい、大丈夫か。生きているか!」

私は会社に遅刻する心配をすっかり忘れて、妻の肩を激しくゆすった。

 

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遅刻する!

休日の朝は、私は非常に早起きだ。

 

驚くなかれ、起床時刻は午前4時。

休日前の夜は、午前様をまわったころまで、だらだらと深夜番組(楽しみにしているのは、『ドキュメント72時間』と『探偵ナイトスクープ』)を観ているのだから、睡眠時間は3時間ぐらいしかとれていない(ナポレオンに勝る短時間睡眠だ。明石家さんまには、負けるかもしれないが…)。

 

そんなに睡眠時間をケチるのは、もちろん、重い責任から解放される休日の貴重な時間を、少しでも長く謳歌したいからである。

 

それに対し、平日は少しでも長く睡眠時間を延ばすことに悪戦苦闘している。

それは、睡眠が唯一、つらい現実と向き合うことを忘れさせてくれる手段だからだ。

 

だから私は晩酌を済ますと、小学生の息子より早く床にはいるのを習慣にしている。

そして起床時刻の午前6時まで、夢も見ずに爆睡したい、と願っている。

 

願っている、と書いたのは、私の眠りの質が良くないからだ。

 

まずトイレに行く回数が多い。

平均、二回は尿意をもよおし、目が覚める。

 

ひどいときなんか、五回も六回もトイレに行く。

といっても、チョロリとしか尿は出ないのだが、我慢をして睡眠が邪魔されるのが嫌なので、仕方なくトイレに向かうのだ。

 

加えて、私は夢を見ない日がない。

しかもその夢は、たいてい愉快なものではない。

 

特に朝方に見る夢はよくない。

午前4時をまわると、深い睡眠がとれなくなり、時計を気にしつつ強引に寝ようとするせいか、会社に遅刻しそうになる夢を見ることが多い。

 

今朝も、そんな夢にうなされて目が覚めた。

 

だが、まだ起きる時間ではなさそうだ。

鳥のさえずりは聞こえるが、妻のつくる味噌汁のにおいがしないからだ。

 

あとどのくらい眠れるだろうかと思って、枕元に置いてある電波時計を見る。

 

「嘘だろ…」私は仰天のあまり、跳ね起きた。

もう午前6時半をまわっていたからだ。

 

アラームをセットしておいたはずなのに、ナゼ鳴らなかったんだ。

というより、ナゼ妻は起こしてくれなかったんだ。

 

私は激しい怒りとともに、ベッドから降りようと、腰を土屋圭市のドリフトのように急旋回させる。

 

すると、さらに仰天したことに、とっくに起きているはずの妻が、こちらを背にして寝ている姿が目に飛び込んだ。

 

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