会社がない!

目が覚めたら、会社がなくなっていた。その世界は、幸せか不幸せか?

迷う「彼」の知り方

外の世界を変えようがないのなら、残された道はひとつしかない。 

 

その道とは、己を変えることだ。

つまり、社会復帰をして家族を養っていくには、すっかり様変わりしてしまった世界に順応すべく、自分を変えるのが、変えられようのない世界に抗うより近道ということである。

 

孫氏も言っているではないか。「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」と。

賢く戦うには、これから戦う世界のことを知らなければ始まらないのだ。

 

そう覚悟が定まると、気が狂うのではないかと思うほどの不安がやわらいだ。

 

しかし別の問題が残っている。

それは、どうやって「彼」、つまりこれから戦う社会のことを知るかということだ。

 

教えを請う最適な人物になれるのは、いま私に最も寄り添ってくれている妻しか見つからない。

 

だが、妻にどうやって教えを請えばいいのか。 

その正解がわからず、私はまた唸り声をあげる。

 

目が覚めたら、全く知らない世界におかれて困っているので、この世界のことを教えてほしいと正直に打ち明ければいいのか。 

それとも、頭がおかしくなったふりをして、リハビリのなかで、いろんなことを教えてもらえるよう仕向けるのがいいのか。

 

とっさに思いついた、そのふたつの選択肢のどちらを選べばいいのか、私の心は再び激しく揺れ動く。

 

〈続く〉

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残された道

残された家族のことを思うと、自死の選択はありえなく、働くしかないという結論に至る。

 

そのためには、早く病気を治して社会復帰せねば!

私は両手で頬を叩いて喝を入れる。

 

でも、オレは本当に病気なのか…。

私はどうしても自分の頭がおかしくなっていると思えない。

 

「どうすりゃ、いいんだ」

私は途方に暮れて、天を仰ぐ。

 

自分が病気であったらいいのに、と初めて思った。

病気ならば、治療という努力の方向性が見える。

 

しかしそうでないとすれば、なにをどう努力していいのかわからなくなる。

おかしくなっているのは、自分ではなく、努力では変えようがない領域、つまり今いる世界にあるからだ。

 

そうなると、残された道はひとつしかない…。

 

〈続く〉

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最悪の選択

夢から覚めても、記憶にないショッキングな出来事の数々が揺るぎないものとなった今…。

自分の頭がおかしくなったにしろ、そうでないにしろ、私はこの現実に対処する選択を決めなければいけないと思った。

 

まず、思った選択。

それは、自死であった。

 

自死の誘惑に駆られたのは、今回が初めてではない。

 

というか、一週間に一度はある。

 

とくにその症状が出るのは、日曜日の夕方から月曜日の朝にかけての時間帯だ。 

いわゆる「サザエさん症候群」である。

 

心配症な私は、思春期の頃から考えすぎる癖がついた。

その癖は大人になってますます強まり、あらゆるものを悲観的にとらえるようになった。

 

その結果、慢性的ともいえる、晴れない苛立った気分に悩まされるようになったのである。

 

しかし、今回の気分は、これまで味わった苦痛を遥かに凌ぐ重症である。

 

未来を乗り切る自信は微塵もなく、今すぐに死にたい衝動に駆られる。

 

だが、残される子どもや妻、両親を思うと、そんな身勝手は許されるはずもない…。

 

そのふたつの思いの板挟みで、私は気が狂いそうになる。

 

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傷の記憶

夢も見ない深い眠りから覚めると、枕元に置かれた時計の針は午後3時22分を指していた。

妻からもらった睡眠薬が効いたようだ。

 

3時間の熟睡で、心身の疲れはだいぶとれた。

しかし今朝からの出来事を思うと、心にばっと暗雲が覆う。

 

すべてが夢であってくれればいいのに…と、白い天井を見ながら思う。

 

無駄だとわかっていながら、右頬を強くつねってみる。

やはり、激痛が厳しい現実をつきつけてくれた。

 

それでは、昨日まで私がいた世界は夢だったのか?

 

夢だとしたら、あまりにも長すぎるし、記憶も鮮明すぎる…。

 

それに…と思い、私は右の小指の切り傷をみる。

この傷は、おととい仕事でカッターを使い、うっかりやってしまったものだ。

 

私は救われた思いがして、更なる救いを求めるためにベッドから起き、小机に置かれた通勤カバンのなかを見る。

 

が…、無情にも私の期待を裏切り、通勤カバンのなかには、私が持ち帰ったと記憶する会社の書類は一切なかった。

 

「そ、そんな…」

私はひとつひとつ記憶にあるカバンの傷を見つめながら、失望の声をあげた。

 

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契約雇用に未来あり?

「なに落ち込んでいるんだよ」

弟は、契約雇用の身分に落ちた私を不可解そうな表情で見る。

 

「落ち込むにきまっているだろ」私は吐き捨てるように言う。「明日が保証されない身分になっちまったんだから」

 

「アニキは、とことんマイナス思考だな」弟は笑い飛ばす。「3年毎に契約が切れるから、いいんじゃないか。それを機に、自分の好きな道やステップアップにチャレンジできるんだから」

 

「オマエってやつは、とことん極楽とんぼだな」

私は、その言葉とは真逆の転落人生を歩む弟を冷ややかに見て、深い溜め息をつく。

 

能力を活かせる仕事も高い給与も与えられない契約雇用に、明るい未来なんてあるもんか…。

私の脳裏に、自分の下で働いていた派遣社員の陰鬱な顔が浮かぶ

 

「ウォーッ。オレはこれからどうやって家族を養っていけばいいんだ!」

絶望のあまり、私は頭の髪の毛をかきむしる。

 

「どうしたの、大きな声を出して」

階段をあがってきた妻が私達のほうへ駆け寄る。

 

「わけわからないよ」弟は困り顔で両手をあげる。「アニキ、オレが結婚していることも、契約で働いていることも忘れちゃっているし、どうしちゃったの?」

 

「ごめんなさいね」妻は頭を下げながら、弟の耳元で囁く。「ちょっと、一時的に認知機能がおかしくなっているようなの」

 

「エッ、そうなの」

小声で驚く弟の声。

 

「だから、今日はこのへんで」

申し訳なさそうな表情で、両手を合わせる妻。

 

「わかった。お大事に」

静かな笑顔で踵を返し、足音もたてずに去っていく弟。

 

パニック状態で荒い息を吐きながら見るその光景は、陽炎のごとく揺れていた。

 

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オレまで…

「お、おまえ、いつ結婚を?」

そう言いつつ、私は弟の左手に視線を落とす。 

ヤツの左手の薬指には、結婚指輪がつけられていた。

 

「なに言っているんだよ」弟の表情は、ギョッとしたものになる。「アニキだって、結婚式に出席したじゃないか…」

 

「そ、そうだったな…」

ロクデナシな弟には見下されたくないというプライドから、私はつまらない嘘をついてしまった。

 

「しかし、おまえよく結婚できたな」私は空元気をだして言う。「ほら、バイトぐらしで、生活も安定してないだろ」

 

「バイトぐらし?」

弟は眉間に深いしわを寄せ、首を傾げる。

 

えっ、意味が通じないのか? 

 

「つ、つまり、ちゃんと働いていないってことさ」

この世界に住む人に通じない“会社”という禁句をつかえないため、弟の質問に対する私の返答は、ピントのぼやけたものになる。

 

「ちゃんと働いていないってのは、どういうことだよ」

気に障ったのか、弟は喧嘩腰になる。

 

「そ、それは、終身雇用でないというか、要するに契約で雇用されている不安定な身分だってことだよ」

 

「はぁ?」弟の語気は一層荒々しくなり、傾がった首は肩につくほどになる。「そんなのアニキだって同じじゃないか。て言うか、みんな同じだろ。それに、終身雇用って何?」

 

「へっ!?」

声ともため息ともつかない、脱力した音が喉から漏れた。

 

オレが、契約社員…。

身分がペットから野良犬に落ちたような、たとえようのない心細さが私を襲う。

 

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弟まで…

「な、なに怒っているんだよ…」

弟は私の剣幕が予想外であったらしく、呆気にとられた表情を浮かべる。

 

「43の中年男が自分に合った仕事を就けるなんて、そんな贅沢できるわけないだろ!」

世間知らずの弟に私はかみつく。

 

「それはアニキの努力次第だろ」

 

「は?」私はあんぐりと口を開ける。「オマエは馬鹿か」

そんな贅沢な選択が許されるのは新卒者までだ。

中年男は面接を受けさせてもらえるどころか、門前払いだって珍しくない。

努力では解決できない問題があるってことを、40を過ぎてもアーティストになる夢を追い続ける弟には、わからないのかもしれない。

 

この機会に説教をしてやろうと思い、私は、四角い顔についた弟の小さい目をキッと見据えて言った。

「オマエ、いい加減、夢から覚めろ」

 

「どういうことだよ」

 

「アーティストになるなんて、馬鹿な夢を諦めろってことだよ」

 

「なんで?」

弟は小さい目を丸くする。

 

「そんなことをしていたら人生を棒にふってしまうからだよ」私はため息をつきながら首を左右にふる。いい歳をしてそのくらいのこともわからないのかと、愕然としたからだ。「だから、バイト暮らしじゃ、結婚ができないし、老後だって安心できないってことだよ」

 

「なに言っているの」弟は目玉が飛び出るくらいに驚いた表情をした。「オレ、結婚しているじゃないか。それに老後の心配なんて、あるわけないだろ」

 

「えっ!?」

驚きで、口から心臓が飛び出そうになる。

 

目覚めてみたら、外の景色ばかりでなく、ロクデナシな弟までかわっていたとは…。

悪夢を見ているとしか思えない現実に私は途方に暮れた。

 

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