会社がない!

目が覚めたら、会社がなくなっていた。その世界は、幸せか不幸せか?

息子の夢

「そろそろ、ミノルが帰ってくるころね」

妻は腕まくりをしながら言った。

 

「そうね」

長女も続いて腕まくりをする。

そして彼女らは、夕食の支度を再開した。

 

ミノルとは、小学三年生になる長男である。

家で読書やゲームをするより、外で遊ぶのが大好きな腕白小僧だ。

 

なのに、将来の夢は小説家だそうだ。

理由をたずねたら、「だって、小説家なら会社に行かなくていいじゃん」と答えた。

 

会社に行きたくないわけも訊いてみたら、「だって、サラリーマンって、つまらなさそうだから」と、本当に嫌そうな顔で答えた。

 

どうやら、彼がサラリーマンを嫌う原因は、日々遅くまで仕事をして、疲れ果てた顔で帰ってくる私にあるようだ。

 

「でも小説家なら、自分で自由に働く時間を選べるでしょ。そうすれば、昼間たっぷり遊べるじゃん。そんでさ夕食を食べた後、ちょこちょこと仕事をすればいいから、断然小説家のほうがステキだよ」と、知ったような口をきく。

 

「そんなことあるもんか」と私が反論すると、息子は新聞をもってきて、そこに掲載されている小説を見せ、「だって、一日にこれっぽっち書けばいいんだよ。楽勝じゃん」と返してきた。

 

遊び疲れて帰ってきて、夕食を食べれば、宿題をする気も失せる毎日を送っているくせによく言うものだ。

 

勉強嫌いで、水商売みたいな仕事にあこがれる一人息子の将来が私は心配でならない。

そろそろ学習塾に通わせようかとも思っているが、一家の主である私が無職となった今、我が家にそんな余裕があるかと思うと、陰鬱な気分になる。

貧困家庭の子供が増えているというニュースを他人事のように聞いていたが、まさか他人事でなくなるとは…。

と、深いため息をついていると、大きな音をたててドアが閉められ、ドタドタとこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。

 

「噂をすれば、我が家のプリンスの登場ね」

妻はクスリと笑い、熱したフライパンにステーキ肉をのせた。

 

〈続き〉

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ステーキな夕食

「し、しかし、そんなので本当にやっていかれるのか?」

自分でもうるさい質問だとわかりつつも、不安が収まらず、再び確認してしまう。

 

認知症と診断され働けなくなった私と、小学三年生になる長男というお荷物を抱え、妻と高校一年生の長女の労働時間は、ともに4時間だという。

どう考えても、その程度の労働時間で、4人家族を養えるわけがない。

 

しかし妻も長女も、生活に追われている様子はない。

むしろ、記憶にある彼女らより、鷹揚というか、ゆったりと楽しんで暮らしている感じだ。

 

私は彼女らがつくっている料理に目をやる。

調理カウンターの上には、洋食のときに使う平皿が4つ置かれ、その上には、付け合せのマッシュポテト、ブロッコリー、レタス、トマトがのせられている。

そしてその奥の流し台に置かれたまな板の上には、まだ焼かれていないステーキ肉が4枚。

 

生活困窮者が食する夕食でない…。

というか、このような豪華な献立は、私の稼ぎで家族を養っていた頃は、誰かの誕生日や結婚記念日などの特別な日にしかなかった。

 

「今日は、何かの記念日だったけ?」と私は訊く。

 

「普通の日よ」妻は答え、首をかしげる。「何で?」

 

「いやなに、今日はステーキだからさ」

 

「ああ」妻は合点したようで、笑顔で頷きながら答えた。「あなた今朝から何も食べてないでしょ。いろいろあって疲れてもいるだろうし、ちょっとスタミナのつくものにしたのよ」

 

「そ、そうか、ありがとう」妻の優しさに感動し、涙腺が緩む。私は目尻に感じた涙を瞬きで消しながら言う。「でも、こんな豪華なもの、無理しなくてもいいぞ」

 

「無理じゃないわよ」妻は笑顔で返して、長女に訊く。「ねぇ」

 

「そうよ、全然無理じゃない」

長女も笑顔で頷いた。

 

 

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ついに問う

「なに怒っているのよ」ヒートアップする私と随分落差のある少しだけ尖った口調で妻は返した。「4時間労働で何が問題あるっていうの?」

 

「問題大ありだろ!」私の声のボリュームは、抑えきれずあがる。平然と答える妻の態度がふてぶてしく感じられたからだ。「女子供がその程度の労働時間で得られる収入で、家計を賄えるわけがない」

 

「なんでよ」

妻は口をがらせる。

 

「だってそうだろ、4時間労働だぞ」

妻の尖った口先に、私は人差し指を触れんばかりに突き立てる。

 

「ええ、そうよ」

 

「ええ、そうよ、だと…」あまりの怒りで、足先から脳天へと震えが駆けあがってきた。「オマエ、そうとうキツイ仕事しているんだな」

 

「そんなことないわよ」妻は私の人差し指を払い除けて笑顔で答えた。「というか、むしろ楽しい」

 

「楽しい、だと…」私は人差し指を妻の顔面に激しく戻して、あらん限りの声をあげた。「お前ら、女を武器にした仕事をしているのか!」

 

「何よそれ、どういうこと!」

妻は私の怒りと同調した大声を返した。

 

「そんなことしているわけないじゃない! ひどいわ」 

長女も激しく刺激されたらしく、妻の背後に隠れた体を前面に押し出して、耳をつんざくくらいに絶叫した。

 

「そ、そうか…」

彼女らの剣幕に圧倒され、私は怯んだ細い声で頷く。

 

どうやら、ふたりはいかがわしい仕事をしていないようだ。

ほっとすると同時に、特別な能力がない彼女らが、そのような短時間労働で高収入が得られる仕事の謎がますます深まった。

 

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驚愕の労働時間

「ちょっと訊いてみたいんだけど、アタナの考える楽して稼げる仕事って何?」と妻は言った。

 

「そ、それは…」

ストレートに訊かれると、返答に困る質問だ。

私が勘ぐるカラダを売って稼ぐ仕事をしていると言えないし、もし妻と長女が真っ当な仕事で労働時間に見合わぬ収入を稼げているとなれば、それは私たちサラリーマンが目指す非常に労働効率のよい仕事を彼女らがしていることになるからだ。

 

窮地に陥った私は、とっさに思いついた質問を妻に投げた。

「お、お前、一日何時間働いているんだ?」

 

「4時間よ」と妻はさらりと答えた。

 

「よ、4時間…」

想定外の労働時間に私は仰天した。

記憶にある近所の工場で働く妻のパート勤務の労働時間は、6時間であった。

それより短い労働時間で、どうやって失業した私の稼ぎの補填ができるのだろうか…。

 

「お、オマエはどうなんだ?」

私は妻の背後で怯えた表情を浮かべる長女に訊いた。

 

「わ、私も同じよ…」

 

「そ、それでやっていかれるのか…」

目眩がするほどの不安に襲われ、私は妻に訊く。

 

「もちろん」

あっけらかんとした口調で妻は答えた。

 

「そ、そんなわけないだろ!」

私の喉から、また荒々しい声が出た。

妻と長女がいかがわしい仕事で収入を得ているという疑いがますます強まった。

 

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意味わかんない

「意味わかんない」

間髪入れず、長女が横から口を挟んだ。

 

「な、なんだぁ、親にむかってその言い草は!」

猛烈に腹が立って、私は長女に咆哮をぶつけた。

 

「もう、いい加減にして!」

妻は長女を庇うように、両手を大きく広げて長女の前に立った。

 

「そういうようにオマエが甘やかすから、コイツは親を馬鹿にした態度をとるんだ」

私は首を伸ばして、妻の背後に隠れている長女に威嚇の視線を射つづける。

 

「何も、おかしなこと言ってないじゃない」

妻は私の顔にあわせて顔を傾げ、その視線をも遮る。

 

「言ったじゃないか」

 

「言ったって、何を?」

 

「意味わかんない、ってことさ」

 

「ああ、あなたが楽して稼ぐ仕事に、ろくなものがないと言ったことに対して」

 

「き、決まってるじゃないか」

争論すら認識できていない妻に呆れて、私はため息をついた。

意味わかんない、って言いたいのは、こっちのほうだ。

 

「でもそれは、私も意味がわからないわ」

 

「な、なんだと…」

娘を庇うために調子を合わせいるのか、本当にそう思っているのか、妻の真意がつかめず、私は二の句が継げなかった。

 

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真面目の逆

「真面目な仕事?」妻は私の顔を食いつくように見てから、鼻で笑った。「なに、よくわからない」

 

「いい歳して、そんなこともわからんのか!」

小馬鹿にされた気分になり、私は声を荒げた。

 

「じゃぁ、真面目じゃない仕事って何?」

カチンときたのか、妻も荒れた口調で返してきた。

 

「そ、それは…」

またもや、妻子の前で自分の想像するいかがわしい職業の名称を言うのをためらわれ、私は口ごもる。

 

どうすればいいんだ…。

私は、形勢逆転をはかるべく知恵を絞る。

 

そこで、私は気がついた。

逆転したいのなら、逆転した発想で返せばいいのではないか、と。

 

それはつまり、不真面目な仕事について語れないのなら、真面目な仕事とはどういうものかを語ればいいという発想だ。

 

長年のサラリーマン人生で学んだ仕事の価値観を語ることは、妻子へのいい教育にもなる。

一石二鳥だ。

 

「仕事とは、汗水たらして地道に働いて、それで家族を養い、世の中のためになるから尊いんだ」

強気を取り戻した私は、父親の威厳を見せるため胸を張って言った。

 

「だから、何?」

妻と長女は、合唱するかのように息の合った言葉を返してきた。

 

「わからないやつらだ」私は髪の毛を激しくかいて、また声を荒げてしまう。「だから、不真面目な仕事というのは、いま言ったのと逆な仕事ってことだよ」

 

「逆な仕事って、ことは…」

妻はのんびりとした口調で、空を見上げる。

 

「楽して稼ごうって仕事のことだよ!」私は妻のテンポに苛立ち、斧で薪を割るように言い放った。「そういう仕事にろくなものはない」

 

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言えないよ

「や、やりたい仕事って、お、おまえまさか…」

一文字発する度に水分が失われていくように、私の口内は急速に乾いていく。

 

「まさかって、なに?」

長女は上唇を、再びアヒルのようにめくりあげる。

 

「そ、それは、つ、つまり、な、なんだ…」

娘の前で私の想像するいかがわしい職業の名称は言えず、私の干からびた喉から次の言葉が出ない。

 

「な、なに、どうしたの?」

私の動揺が伝染したかのように、長女も動揺した声をあげる。

 

「だ、だから…」

砂漠でオアシスを見つけられない人のごとく、私は回答に困り、かすれた声で言葉をつまらす。

 

「ち、ちょっと、お父さん、やばいんじゃない」

長女は、彼女の隣にいる妻の腕を揺さぶりながら言う。

 

「そ、そうね」妻は動揺した手つきで、パンツのポケットからスマートフォンを取り出す。「き、救急車呼ぶわ」

 

「ば、馬鹿、そ、そんなの呼ぶな!」

金縛りを振り払うように必死にもがいた末、ようやく私の喉から吹っ切れたような明瞭で大きな声がでた。

 

「大丈夫なの、あなた?」

妻はスマートフォンを操作する手をとめた。

 

「決まっているだろ」

 

「本当?」妻は私を凝視して訊く。「じゃぁ、どうしたっていうの?」

 

「どうしたって、そ、それは…」

 

「なに?」

容赦なく、妻は畳みかける。

 

「だ、だから、そ、それは真面目な仕事なんだろうな」

適切な言葉が見つからないまま、私は言葉を返した。

 

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