会社がない!

目が覚めたら、会社がなくなっていた。その世界は、幸せか不幸せか?

ついに問う

「なに怒っているのよ」ヒートアップする私と随分落差のある少しだけ尖った口調で妻は返した。「4時間労働で何が問題あるっていうの?」

 

「問題大ありだろ!」私の声のボリュームは、抑えきれずあがる。平然と答える妻の態度がふてぶてしく感じられたからだ。「女子供がその程度の労働時間で得られる収入で、家計を賄えるわけがない」

 

「なんでよ」

妻は口をがらせる。

 

「だってそうだろ、4時間労働だぞ」

妻の尖った口先に、私は人差し指を触れんばかりに突き立てる。

 

「ええ、そうよ」

 

「ええ、そうよ、だと…」あまりの怒りで、足先から脳天へと震えが駆けあがってきた。「オマエ、そうとうキツイ仕事しているんだな」

 

「そんなことないわよ」妻は私の人差し指を払い除けて笑顔で答えた。「というか、むしろ楽しい」

 

「楽しい、だと…」私は人差し指を妻の顔面に激しく戻して、あらん限りの声をあげた。「お前ら、女を武器にした仕事をしているのか!」

 

「何よそれ、どういうこと!」

妻は私の怒りと同調した大声を返した。

 

「そんなことしているわけないじゃない! ひどいわ」 

長女も激しく刺激されたらしく、妻の背後に隠れた体を前面に押し出して、耳をつんざくくらいに絶叫した。

 

「そ、そうか…」

彼女らの剣幕に圧倒され、私は怯んだ細い声で頷く。

 

どうやら、ふたりはいかがわしい仕事をしていないようだ。

ほっとすると同時に、特別な能力がない彼女らが、そのような短時間労働で高収入が得られる仕事の謎がますます深まった。

 

〈続く〉

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驚愕の労働時間

「ちょっと訊いてみたいんだけど、アタナの考える楽して稼げる仕事って何?」と妻は言った。

 

「そ、それは…」

ストレートに訊かれると、返答に困る質問だ。

私が勘ぐるカラダを売って稼ぐ仕事をしていると言えないし、もし妻と長女が真っ当な仕事で労働時間に見合わぬ収入を稼げているとなれば、それは私たちサラリーマンが目指す非常に労働効率のよい仕事を彼女らがしていることになるからだ。

 

窮地に陥った私は、とっさに思いついた質問を妻に投げた。

「お、お前、一日何時間働いているんだ?」

 

「4時間よ」と妻はさらりと答えた。

 

「よ、4時間…」

想定外の労働時間に私は仰天した。

記憶にある近所の工場で働く妻のパート勤務の労働時間は、6時間であった。

それより短い労働時間で、どうやって失業した私の稼ぎの補填ができるのだろうか…。

 

「お、オマエはどうなんだ?」

私は妻の背後で怯えた表情を浮かべる長女に訊いた。

 

「わ、私も同じよ…」

 

「そ、それでやっていかれるのか…」

目眩がするほどの不安に襲われ、私は妻に訊く。

 

「もちろん」

あっけらかんとした口調で妻は答えた。

 

「そ、そんなわけないだろ!」

私の喉から、また荒々しい声が出た。

妻と長女がいかがわしい仕事で収入を得ているという疑いがますます強まった。

 

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意味わかんない

「意味わかんない」

間髪入れず、長女が横から口を挟んだ。

 

「な、なんだぁ、親にむかってその言い草は!」

猛烈に腹が立って、私は長女に咆哮をぶつけた。

 

「もう、いい加減にして!」

妻は長女を庇うように、両手を大きく広げて長女の前に立った。

 

「そういうようにオマエが甘やかすから、コイツは親を馬鹿にした態度をとるんだ」

私は首を伸ばして、妻の背後に隠れている長女に威嚇の視線を射つづける。

 

「何も、おかしなこと言ってないじゃない」

妻は私の顔にあわせて顔を傾げ、その視線をも遮る。

 

「言ったじゃないか」

 

「言ったって、何を?」

 

「意味わかんない、ってことさ」

 

「ああ、あなたが楽して稼ぐ仕事に、ろくなものがないと言ったことに対して」

 

「き、決まってるじゃないか」

争論すら認識できていない妻に呆れて、私はため息をついた。

意味わかんない、って言いたいのは、こっちのほうだ。

 

「でもそれは、私も意味がわからないわ」

 

「な、なんだと…」

娘を庇うために調子を合わせいるのか、本当にそう思っているのか、妻の真意がつかめず、私は二の句が継げなかった。

 

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真面目の逆

「真面目な仕事?」妻は私の顔を食いつくように見てから、鼻で笑った。「なに、よくわからない」

 

「いい歳して、そんなこともわからんのか!」

小馬鹿にされた気分になり、私は声を荒げた。

 

「じゃぁ、真面目じゃない仕事って何?」

カチンときたのか、妻も荒れた口調で返してきた。

 

「そ、それは…」

またもや、妻子の前で自分の想像するいかがわしい職業の名称を言うのをためらわれ、私は口ごもる。

 

どうすればいいんだ…。

私は、形勢逆転をはかるべく知恵を絞る。

 

そこで、私は気がついた。

逆転したいのなら、逆転した発想で返せばいいのではないか、と。

 

それはつまり、不真面目な仕事について語れないのなら、真面目な仕事とはどういうものかを語ればいいという発想だ。

 

長年のサラリーマン人生で学んだ仕事の価値観を語ることは、妻子へのいい教育にもなる。

一石二鳥だ。

 

「仕事とは、汗水たらして地道に働いて、それで家族を養い、世の中のためになるから尊いんだ」

強気を取り戻した私は、父親の威厳を見せるため胸を張って言った。

 

「だから、何?」

妻と長女は、合唱するかのように息の合った言葉を返してきた。

 

「わからないやつらだ」私は髪の毛を激しくかいて、また声を荒げてしまう。「だから、不真面目な仕事というのは、いま言ったのと逆な仕事ってことだよ」

 

「逆な仕事って、ことは…」

妻はのんびりとした口調で、空を見上げる。

 

「楽して稼ごうって仕事のことだよ!」私は妻のテンポに苛立ち、斧で薪を割るように言い放った。「そういう仕事にろくなものはない」

 

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言えないよ

「や、やりたい仕事って、お、おまえまさか…」

一文字発する度に水分が失われていくように、私の口内は急速に乾いていく。

 

「まさかって、なに?」

長女は上唇を、再びアヒルのようにめくりあげる。

 

「そ、それは、つ、つまり、な、なんだ…」

娘の前で私の想像するいかがわしい職業の名称は言えず、私の干からびた喉から次の言葉が出ない。

 

「な、なに、どうしたの?」

私の動揺が伝染したかのように、長女も動揺した声をあげる。

 

「だ、だから…」

砂漠でオアシスを見つけられない人のごとく、私は回答に困り、かすれた声で言葉をつまらす。

 

「ち、ちょっと、お父さん、やばいんじゃない」

長女は、彼女の隣にいる妻の腕を揺さぶりながら言う。

 

「そ、そうね」妻は動揺した手つきで、パンツのポケットからスマートフォンを取り出す。「き、救急車呼ぶわ」

 

「ば、馬鹿、そ、そんなの呼ぶな!」

金縛りを振り払うように必死にもがいた末、ようやく私の喉から吹っ切れたような明瞭で大きな声がでた。

 

「大丈夫なの、あなた?」

妻はスマートフォンを操作する手をとめた。

 

「決まっているだろ」

 

「本当?」妻は私を凝視して訊く。「じゃぁ、どうしたっていうの?」

 

「どうしたって、そ、それは…」

 

「なに?」

容赦なく、妻は畳みかける。

 

「だ、だから、そ、それは真面目な仕事なんだろうな」

適切な言葉が見つからないまま、私は言葉を返した。

 

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どんな仕事だ!

「仕事が楽しい…」

嘘でも強がりでもなく、妻は本当に仕事を苦にしていない様子である。

 

記憶のなかの妻は、長時間の立ち仕事の辛さや、自分を活かせない職種への不満、職場の人間関係の悩み、家事との両立の大変さなど、夫婦ふたりになったときに愚痴をこぼすことがよくあった。

 

仕事のストレスがたまっているのは私も同じであったので、苦しいのはお前だけじゃないと、その度に言い返したものだ。

そして仕事とは楽しいものではなく、お金をもらえるのもそういう我慢をするからだと、私は妻に言い聞かした。

それが仕事に対するふたりの価値観ではなかったか?

 

それが、仕事が楽しいだと…。

それって、いったいどんな仕事だ?

まさか、本当に…。

 

妻と長女が真面目な仕事をしていないのではないかという疑念が強まり、私はうろたえる。

 

「お前はどうなんだ?」

私は動揺と怒りが混ざった声で、長女に訊く。

 

「どうって、何が?」

長女は、アヒルのように上唇の先をめくらせて聞き返してきた。

 

「だから、仕事が楽しいか、どうかってことだよ」

 

「決まってるじゃん、楽しいに」

長女はあっけらかんと答えた。

 

その態度が逆らっているように映り、私の怒りの導火線に火がついた。

「お、お前ら、どんな仕事をしているんだ!」

 

私が怒鳴ると、道でいきなり熊に遭遇したかのように、長女は血の気の失った顔色になった。

 

妻は、氷像のように固まった長女の背中を擦りながら、「やりたい仕事にきまっているじゃないの」と私に返し、「ねぇ」と長女に同意を求める。

 

長女は強張った表情を縦にふった。

 

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仕事が楽しい?

「いや、オレがこんな感じで働けなくなったから、お前らに迷惑をかけているなって…」

家族に対する申し訳なさと、自分に対する情けなさで胸がいっぱいになり、私の声はつまる。

といっても、働く場を失ったのは、自分のせいではないが…。

 

「だから、何が迷惑だか、わからないし…」

妻は戸惑った表情を崩さず、首を傾げる。

私に心配をかけないように強がりを言っているのかと思ったが、違うのか…。

 

「ひょっとして…」

長女が妻の腕を肘で突く。

 

「何よ」

妻は傾げた顔を長女に向ける。

 

「私らが働いて、自分が働かないことに罪悪感をもっているのかも…」

長女は妻に耳打ちをする(だからそう言っているし、声を大して低めないので、筒抜けだが)。

 

「えっ、そうなの!」

妻は驚きの声をあげる。

 

妻はなぜ、そんなことも飲み込めないのか…。

私は返す言葉も見つからず、頷くしかなかった。

 

「罪悪感なんてもつ必要ないじゃない」

妻は曇りのない笑みを浮かべた。

 

「いや、でも、お前らに負担をかけてしまうし…」

その笑顔(恋人だった頃の女神のような笑顔ではないが)を見て、私は目頭が熱くなる。

私に心配をかけまいと、妻が精一杯の演技を続けているように思われたからだ。

 

「負担って、何が?」

妻は、また首を傾げる。

 

「だから、仕事だよ」

 

「仕事が負担?」妻は呆気にとられた表情を浮かべてから、笑い飛ばすように言った。「仕事が負担なわけないじゃないの。全然大変じゃないし、むしろ楽しいわよ」

 

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